【緋の祝祭】


 漆黒の闇が渦を巻いて歪んだ空間を押しつぶすように飲み込んでいく。 いや…飲み込まれていくのは「空間」ではなく、きっとこの私自身なのだ。 そして、そのどろどろとした重い質感のある闇は、私の外にあるのではなく… 私の内側…胃の中に肺の中に、あるいは脳の中まで隙間無く充たしてしまっていて… 私を内側から飲み込み喰い尽くそうとしているのかもしれない。

 あの甘美な…それでいて金臭い…赤い液体。 そして妙に生臭い半固形物の…そして同じくどこか生臭く赤黒いどろどろとしたスープ…。 あの宴で食べさせられた得たいの知れない料理が、今身体の中でどろどろの闇となって… 身体を溶かす間際では赤黒い炎となって私の中で渦巻いている。 その証拠に身体が酷く熱くて…息をすることさえままならない。

 ふと誰かに声をかけられたような気がして、鉛のように重い瞼をかろうじて薄く開いた。 そのとたん黒い天井がぐるぐると回りだして、頭から闇に飲み込まれていく恐怖感に再びきつく目を閉じる。 誰かの指がシャツの胸元に絡みついて一つ二つとボタンを外していく。 少し呼吸が楽になって、ひやりとした空気に晒される肌が心地良かった。 冷たい指が髪をすくいあげ、何度も額をなぞっていく。 その感触があまりに心地良くて、冷たい指を掴み取って額と同じように燃えるように熱い頬に押し当てた。
「…少し楽になったかい?」
 思いがけず耳元に響く声に、懸命に瞼をこじ開けて存在を視覚で捉えようと試みる。 ともすれば濃い霧に…湧き上がる黒い闇の粒子に溶けてしまいそうな姿に、 やっとのことで焦点を合わせて見出した顔は…なにやら心配気に覗き込む玄児。
「…玄…児さ…ん?」
 絡まるような舌で搾り出した声は、まるでどこか遠い世界の声のように余所余所しく自分の耳に届いた。 表情を伺おうと凝らした視界に薄く笑う玄児の顔が映る。
「ああ…覚えていてくれて光栄だよ、中也君。 君があまり正体を無くしているんで…俺はまた君が記憶を…」
「……やっぱり…」
 言いかけた玄児の言葉に自分の縺れた声が重なる。
「やっぱり…なんだい?」
 笑みを残したまま問い返す玄児の目は、異様に赤く充血している。 薄暗いランプの光に沈み込むような影の多い玄児の顔。 唇の端を少しあげて笑う口元の影が濃くなって、そのまま耳元まで裂けていきそうな錯覚を覚えた。 ああ…それはまるで…あのいつか観た外国映画の奇怪な……。

 闇色の膜をまとうような黒い玄児の衣装…。
「…やっぱり…あなたは鼯鼠なんかじゃなくて……本当は…蝙蝠…なんでしょ?」
 意味を計りかねて首を傾げるような気配に、妙に可笑しさがこみ上げてくる。 クスクスと笑いながら、どこか投げやりに…抗うことも出来ずに、 餌食になる倒錯めいた心地に酔っていたのかもしれない。 確か血を吸うのはここ…なのだと、掴み取った指を引き寄せて露わにされた首筋に当てる。


「…ここに噛み付くのですか?」
 そのとたんピクリと震えるような指が、捕らえる手を逃れるように引かれた。
「…なにを馬鹿なことを…」
 苦笑とともに逸らされる視線に、安堵よりも酷い落胆が私を襲うのだ。 過ぎたアルコールが感情の波を高ぶらせているのか、急に可笑しくなったり悲しくなったり…。 馬鹿げている…と承知しながらやや意地になって、再び逃れる指を捕らえて引き寄せる。
「…私では不満ですか? 私の血はあなたの好みではない?」
 再び自分の首筋に引き寄せる冷たい玄児の手が、思いがけない強さで拒まれて払われた。 あきれて身を離すような気配に、慌てて黒いスーツの袖を掴む。
「……待って!行かないで!……ひとりに…しないで…!」
 その言葉も動作も意識する前に喉から零れていた。 平素なら口にするどころか、意識することさえ躊躇われるような子供じみた要求。 それでも今は、こんなどろどろの闇の中にひとりで置き去りにされるくらいなら、 身体中の血を吸われて枯れた屍になったほうがましな気さえするのだった。
「…まったく困った酔っ払いだ…」
ぼそりと吐かれる言葉とともに、僅かに眉をしかめた玄児の私を見る堅い視線。 冷たく厭うような視線が胸に突き刺さる。 玄児のスーツの袖を掴む私の指が力を失って、冷たいシーツの上にポトリと落ちた。
 ―――まぁまぁ、困ったものねぇ
忘れ得ぬ…あの記憶…。
 ―――男の子のくせに、この子は…
あの時の、あの人の冷たい視線と言葉が今、どろどろになったような脳に蘇って重なる。
ああ…そうなのだ。 こんな子供じみた自分を誰も望んでなどいない。 熱く燃えるような身体に、頭から冷水を浴びせられたようにひやりと心が冷めていく。 失望と羞恥で消えてしまいたい思いで両の手で顔を覆った。
「……ごめんなさい…あなたを困らせるつもりなど…」
 小さく搾り出す声が震える。 私は…我儘な甘えた子供でいてはいけないのだった。 誰よりも早く子供であることを卒業しなくてはいけなかったのだ…私は。 あの人は…優しく美しく…冷たくて…近くて遠いあの人は……母は… 甘えた子供である私なぞ望んでいなかったのだから……。

 つかの間に落ちる重い沈黙。 ふと一度退いた気配が近づいて、すぐ傍で酷く深い溜息が吐かれた。 顔を覆う手を掴まれて、それを拒んで私は頑なに首を振る。
「…嫌だっ…!私を見ないで…! これ以上…あなたを煩わせるつもりはありませんから…もう…行って下さい…!」
 訴える言葉を無視して抗えない強い力で顔を覆う両手を剥がされて、そこに見たのは妙に熱を帯びたような甘い玄児の瞳。 冷たい指に目元を拭われて、自分が泣いていることに初めて気づいた。 ああ…本当にどうかしている…今夜の私は。 ふと玄児の唇が私の耳元に寄せられて…
「……確かに俺は困っているけどねぇ……少々…いや、かなり…君は間違えているようだ」
 囁かれる言葉に…なにを?と問い返すつもりが、声にする前に言葉は閉ざされてしまった。 唐突に頬に両手を添えて覆いかぶさる玄児に、開きかけた口を塞がれていたのだ。 薄く冷たい唇が自分の口に吸い付いて、唖然とするままになにやら湿った軟体動物のようなものが押し入ってきた。 それが自分の舌に絡むように蠢いているのである。
これは…?
これはテレヴィや雑誌でしか見たことのない…恋人同士の間で交わされる…口付け? 奥手な私は許婚である和枝にさえもSEXはもとよりキスもしたことがなかったのだから、 今、自分と玄児の間で交わされている行為に、現実感と認識がついていかないのだった。 だから…蛞蝓を口に含むような…どこか背筋が寒くなるような気持ち悪さを伴う行為を拒めないでいるのか…?
「……ふ…ん…っ…」
 息の継ぎ目が分からなくて漏れる自分の息が、思いがけないくらい甘くて… 私は気持ち悪いはずの玄児との口付けを、拒むどころか抗うこともなく受け入れているのだと認めざるを得ない。

「…中也君……俺は…こんなふうに君を扱うつもりはなかった…」
 湿った音をたてて離れた唇から、吐息とともに吐き出される言葉。 再び短く深く吸い上げ絡まる口付けの合間に言葉が継がれる。
「……君に欲を感じなかった…と言えば嘘になるが…、俺は…」
 つっと流れ落ちるどちらのものと分からない唾液を追って、玄児の唇が頬から首筋へと伝っていく。
「まるで穢れを知らないような……まったく陳腐な言葉だが…そう…まるで天使のような…君を汚すつもりなど…」
 さっき自分で玄児の指を誘った首筋を強く吸われて、ビクリと身を竦めてしまう。 やはり…?そんな疑問を察してか、そこで小さく震えるように笑う玄児の歯が肌に当たった。
「君の血を吸う…とでも? 馬鹿な…。俺は吸血鬼なんかじゃないさ」
 言葉とは裏腹にチクチクと痛いようなくすぐったいような感触に恐怖と驚愕に見開く私の目を、 笑いを含んだ玄児の赤い目が覗き込む。 笑ってはいるけれど、その玄児の顔にはどこか苦渋の色さえ伺えるのである。 シャツのボタンを全て外されて、肩から剥ぐように広げられて晒される胸元に再び玄児の顔が覆い被さった。
「…血を吸うより酷い行為かもしれない…。 そんなふうには作られていない君の身体を…俺は無理やり自分の身体に繋ぎとめようとしているのだから」
 顔を反らせて告げられる言葉とともに、胸の突起に強く吸い付き弄るように絡められる舌。 そのとたん、そこから湧き上がる痺れにも似た未知の快感にビクリと身体が震えた。 驚いて玄児の肩を押し退けようとする手を軽く払われる。
「つぅ…っ!」
 うろたえる私を諌めるように、乳首に軽く歯をたてられる痛みに呻きが漏れた。
「…だめだよ、今更…。俺は、俺の欲から君を守ろうとしたのに……煽ったのは君なんだからね」
 責めるような…どこか投げやりな言葉を吐く玄児に、乱暴に下着とともにズボンを引き下げられ取り払われてしまった。 晒される足を開かれて、閉じられぬように割り込み被さる玄児の身体。 否応なしに女のように抱かれるのだと知れる行為に、だがしかし私の抵抗は形ばかりだった気がする。 再び胸の突起に吸い付く唇と開けられた足の間に絡みつき上下する玄児の指に、 羞恥だけではなく甘い快楽を伴う新たな熱が身体の芯から次々と湧き上がる。 一度冷めた身体がさっきよりもずっとリアルに、どろどろとした闇と赤黒い炎に溶かされていくようであった。

「…あ…ぁぁっ……ん…っ…!」
 乳首を弄り肌のいたる処を吸う唇が臍をたどって更に下へ…。 熱の集まる場所を直接口に含まれて、自分の声とは思えない甘い淫らな喘ぎが零れた。
「……ぁ…い、嫌っ…玄…児さ…んっ…」
 羞恥と滲む汗と玄児の唾液にまみれて、嫌々と首を振りながらも少しも嫌がってなどいない自分。 ああ…ずっと…どこかでこんな瞬間を…私は望んでいたのではないだろうか? この暗黒館に訪れてから…いや…玄児と出会ったあの晩春の夜から… 冷たく青白い霧に閉ざされていくような…漆黒の闇にじわじわと絡め捕らえられていくような不安にかられながら、 いっそのこと、もっと強く、抗うことも叶わずに否応なしに捕らえられることを望んでいたのではないか? そんな自分を何度も否定しながら…。
 ずっと私は…母からも…和枝にさえ、本当の…素のままな自分を求められたことはなかったような気がする。 人から愛されるにはどこか欠けた存在…そんなふうに自分のことを諦めていたのだった。 だから玄児と出会ってから…求めるより求められる心地良さに酔っていた。 和枝に向ける愛情とは違う次元で…自分の性さえも歪めてしまうほどに玄児に惹かれていのだと思う。 酒にどろどろに酔わされたこんな時でなければ…決して認められない自分なのだが…。

 クチュクチュと卑猥な音をたてて上下する玄児の唇。 恥ずかしい部分にヌメヌメと絡みつく舌に、背筋を這い登る波のような快楽に何度も身体がしなる。
「…はぁ…あ…っ! あぁ…っ…もぅ…玄児さ…ん!…も、もぅ…!」
 訴える間もなくビクビクと震える身体から限界に高められた熱が弾けた。
「…ぁ…ぁ…っ」
 荒い息を吐きながら居た堪れなさにきつく目を閉じる私に、チュプリと卑猥な音をたててそこから顔を離す玄児の気配。 恐る恐る目を開けて見ると相変わらずぼやけるような視界に、 じっと私を観察するような…玄児のニヤリと笑う口元だけが妙に鮮明に映る。
「…あまり…美味いものではないな…」
 唇から零れるそれを拭いながらぼそりと呟く玄児の言葉に、私は羞恥で顔が熱く染まるのがわかった。 目を反らせたいのになぜか視線を外すこともできなくて…そんな私をからかうように、私の吐き出したものを指に絡めて笑う玄児。 その指をつっと私の足の間に滑らせたかと思うと、とんでもない場所を探り当ててやわやわとそこをなぞるのである。
「あぁ…っ…!…そ、そんな…そんなところを…!?」
 思いもよらない行為に慌てる私に容赦なく、玄児の指が滑りを借りてそこから中へと侵入してくる。
「き、気持ち悪い…!玄児さん…!」
 悲鳴のように叫ぶ私の声に、あろうことか増やされかき回される指に違和感と痛みが突き上げてくるのだ。 やがてツプリと引き抜かれる指の感触に、ざわざわと身体中が粟立つようである。
「…大丈夫さ…気持ち悪いだけじゃなくて、すぐに…良くなるから…」
 闇に溶け込むような玄児のいびつな笑い。 つっと宥めるように頬を伝う冷たい指の甘さに…もう私は抗うことの出来ない自分を知っている。 身体を少し離した玄児が自分の衣服をすばやく脱ぎ去った。 細いと思っていた玄児の意外と締まった身体に、なぜだかうろたえて視線を泳がせるような自分が可笑しい。 恥ずかしい角度に足を抱え挙げられて羞恥に眩暈さえするようなのに…ああ…この身体に抱かれてしまうのだという、 あきらめにも似た自虐的な倒錯感に酔わされる。 そんな甘い想いも、さきほど解された場所に思いもよらない熱と質量をともなうものを押し当てられた瞬間に霧散したのだった。 自分のものとも思えないような細く鋭い悲鳴が夜の闇を切り裂く。 そこからメリメリと引き裂かれるような激痛に、 「そんなふうには作られていない身体を…」という玄児の言葉が嫌でも実感される。 その痛みから逃れようとやみくもにもがく私の頬を捉えて、玄児の口付けが宥めるように落ちてきた。 繋がる場所の…内から喰われるような酷い痛みと、優しく吸われる甘さを同時に与えられて、助けを求めるように玄児の肩にすがりつく。 どうしようもなく溢れる私の涙を拭う玄児は、私を溺れさせるのほどに優しくどこか悲しげだったのだが……。

 古いベッドを軋ませるほど烈しく何度も押し入れられては引かれる熱。 大きく卑猥に揺さぶられる身体。 いつもは少し体温の低いような玄児の身体が今は熟れたような熱を帯びていて、 どこからがどちらの身体なのか分からなくなるくらいお互いが溶け合っているような錯覚を覚えた。
「…はぁ…っ…あ…ぁ…!」
 与えられるのは痛みだけではなく、今まで感じたこともないような甘く強い快楽だった。 いつしかその快楽が痛みさえ呑み込んで、私を支配する全てになった。 淫らに喘ぎを零し身体をしならせる私の耳に、時々うわ言のような玄児の囁きが混じる。
「……君は……君は忘れるがいい…この夜の…淫らで穢れた俺たちを…。 でないと…君はきっと…俺も…君自身さえも許せないだろうから…。 中也君…忘れるんだ……いいね?」
 シーツを掴む私の両の手に、それだけは相変わらず青白く冷たい玄児の指が重なる。 まるでそうやって背徳の闇に縫い付けられるように…優しく容赦なく犯される。 淫らに開いた足の間で烈しくゆれる玄児の身体がビクビクと震えて、どろどろと熟した熱が私の身体の中に注がれるのを感じた。
「…ぁぁ…っ……!」
 ああ…そしてその瞬間に私も…。

 荒い息を吐いてぐったり弛緩する身体。 その私の身体にまだ熱い玄児の身体が重なる。 やはり冷たい指が、私の髪を何度も優しくすくう感触が心地良かった。 少し前の…抱かれるまでの…なぜか酷く遠く思える既視感。 渦まくような闇が…今度こそ私を飲み込んでいく。 優しく甘い気だるさをともなって…容赦なく。 その瀬戸際に熱い吐息とともに耳元に囁かれる玄児の言葉…。
「……でも…君を汚してしまったことを…傷つけてしまったことを…俺は…後悔はしないよ。  今夜の淫らで妖しい君を…俺は…忘れない。 そして…中也君……君も…心か身体か…どこか深いところで今夜の俺を忘れないでくれ…。 いつか……君の思うままに生きて…いつか俺の元に……俺の腕に……再び…」
 しまいには消えてしまいそうな呟きに、私は半ば意味も掴めずに…朦朧と…何度も小さく頷いていた。 そして酷くだるい腕を懸命に伸ばして、玄児の頬に添え引き寄せる。 私から返す拙い口付け。 それは不器用な私の精一杯の約束だった。 忘れる…ということと、忘れないということの。 そして私も…後悔だけはしない…。 私の内側から確実に何かが変わったのだとしても… それが私の翼を汚したのだとしても…。
……ああ…その瞬間、鮮やかに脳裏に蘇るあの一枚の…絵。 赤黒い闇とも炎とも知れぬものに捕らえられ傷つく一羽の白い鳥…。
「緋の祝祭」
幻視の力をもった画家はそこに何を見ていたのだろう…?

 意識が更に散漫になり、暗黒館の漆黒の闇に全てが飲み込まれていく…淫らな甘い記憶さえも…。 ……それでも…いつか…叶うなら…もう一度…偽りのない私で………玄児の腕に…。

【END】






文:吉野
絵: 凪

絵とか